心を込めて生きてゆく



袋小路の突き当たりの家人は独居老人です。


土曜日に回覧板を持ってきてくれて前日の黒島公園の桜が綺麗だったこと、今年度の回覧板の順番についてなどアレコレ快活に話してくれました。


その二日後の月曜日、救急車が音もなく共有地に入ってきて突き当たりに住む奥様が搬送されました。
安否を心配し訪ねた壮年男性が救急車を呼んだようです。


火曜日に遠くから慌てて帰省した娘さんと話しましたが⋯。


その壮年男性は医師であることを娘さんから聞きました。
訪問診療の真っ最中に体調が急変し医師が救急車を呼んだそうです。
日頃から感じておりましたが、ご母堂様はお人柄が良く人に恵まれた方でした。
「運が良いですね。出逢う方が皆んな味方をしてくれますね。」と、娘さんと思い出話をしました。


人はどんな暮らしをしていても、どんなに人付き合いがあったとしても、 最期の瞬間は誰にも看取られず、たった一人で幕を閉じることもあるかと思うのです。


人生は一度しかないことにふれたとき、
今という時間を大事にして生きてゆきたいと思いました。


幸せな思いを起こし
家族の為に、自分の為に、心に余裕をもって、心を込めて大事な時間を生きてゆきたいものです。

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無くならない思い出



あと1か月で99歳を迎えるはずの伯母が亡くなりました。


19日通夜、20日葬儀が執り行われ、 盛り沢山な思い出と共に故人の旅立つ儀式が無事終わりました。


「母の芋炊き、カブの酢漬け、どれも美味しかった。嫁に来る前から〇〇家で受け継いでいたその味は天下一品だった。母は多才で晩年俳句を詠み、手先の器用さで数々の細やかな作品を残している。息子や弟を早く亡くした哀しみはあるけれど母の人生は結構上々だったのかもしれない。」
と、喪主であるご長男(夫の従兄)の挨拶がありました。


息子に認めてもらっている⋯母親冥利に付きますね。


参列者の中、体が殊の外小さくて立つのもやっとの102歳の伯母さまが「しっかりせ〜言うたでしょう。ワタシより若い貴女が、何故早く逝くんよ」と妹の亡骸に手を合わせる姿が目も当てられませんでした。


その102歳の伯母さまは、涙をぬぐっては気分転換をしようとなさってか?私と目が合うたびに「ありゃ〜、貴女は、いつまでも若いね〜。」と、その場を和ませます。
このたび、幾度も聞いているのですが、初めて褒めてもらった風に「ありがとうございます」と言う私です。


その後も声にならないむせび泣く声が私の耳に深く入ってきます。
大往生だと皆が口を揃えるけれど、遺された人の悲しみは思い出が詰まっている分深いようです。
お骨を拾う違い箸が震えて、竹と木の相性って悪いのかしら〜と振りをする私です。


亡くなっても無くならない⋯この数日を遺しておきたいと思いました。

自分の心を知ること

「すべてを手に入れる」にはどんな意味があるでしょうか ? 実現可能ですか ?


すべてとは?はて?


社会通念に照らして、“全て”を考察すると、物(資産)や環境そして人の心…が、月並みなのかもしれません。
でも、それを手中にしたところでどんな意味が有るのでしょうか。
しかも人は社会に関わって生きて行く限りその欲は際限がありません。


全てを手に入れるにはどんな意味があって 実現可能ですか ?
このお題に誘導されても、今の私からは的を射た話は出てきません。申し訳ありません。
ですが、
視点を変えてみるとまた別の話が膨らみます。


私の思う“全て”は“私の心”です。
自分はどんな人なのだろう?何を考えているのだろう?何が嬉しいのだろう?そんな想いや自分そのものを知るって強みだと思います。
自分を知ることは殊の外大切です。


自分を知ると、残りの人生を清く正しく自由に生き抜くことが実現できます。
その生き様が、意味ある人生だったか!
それは残った人が答えを出してくれると言うことで充分だと思います。

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【おまけ】


今日は、ちょっと弱気です。この課題から次に考えたことを書きますね。


この世は予測不能なことばかりです。
その変化に対応するためには、
素直さとか柔軟性を持ち、流れに身を任せることが不可欠だと思っています。


自分はどんな人なのか“全て”を知ることは課題ですが、それは実現可能かと考えると…同仕様も無いことばかりだと感じるときがあります。
自分の全てをコントロールすることは難しいことです。
素直さが人生において大切だと念頭においてきましたが、
素直さに拘っても自分の心が悲しければ無理難題な事象ばかりです。


欲を求めて際限なく頑張っても諦めが頭をよぎった時、それは心が「休息が必要だ」と訴えている時なのかもしれません。
自分の心と向き合いながら、時には流れに身を任せる勇気も必要ですね。



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最善を尽くす

自分が取ったリスクのうち、後悔していないものについて説明してください。



Blogを続けることで今まで気付かなかった自分を知ることができました。


継続して書く時間を持つことで、頑張っている自分を見つける事ができ自分を褒めている感覚がより良いライフスタイルへと導いているような気さえするのです。
より深く自分を見つめて自ずと知らされてゆく自分を更に感じてみたいと思うのです。


すると…
“生活様式”とか“何を大切にする”とか“家庭の縮図”とか自分のみならず“家族の人生観や価値観”に至るまで、とんだ暴露Blogになってしまいました。


ハンドルネームなので実在しない家族の話だと思っていただくと好都合なのですが、それがまた正直に書いているものですから、家族を危険に晒しているようなものですよね。
私のどこか間の抜けた考えが、家族の生き方に悪影響を及ぼしているかもしれません。


なかでも、私の仕事…
家庭を大切にするあまり長期で勤めることが難しくライフスタイルに合わせて数々転職してまいりましたが、
その中の幾つかは、転職理由が暴露Blogだったのではないかと感じる昨今です。
上司の感情の起伏を鑑みますと、このBlogに振り回された挙げ句の行為だったのか?と思ったりするのです。


ですが、Blogから仕事を外せません。ジャンジャンバリバリ仕事に励む一面も私なのです。
自分を見つめるとき家事も仕事も外せません。
子育てと家事と仕事の両立を目指すことが私のライフスタイルなのですから。


より良い生活の為のBlogですが、時空に存在するこのBlog事態が自分の取ったリスクだと確信しています。
なのに、このBlogは私の世界となっており、削除したくないと思っている自分が居ます。

 
自分を見つめるとき、人生を決めるとき、人と関わるとき、それらに一番大切なのは「自分が人生で何を大切にするか」という視点だと思っていますが、やはりこのBlogを書いてきた時間と記録が視点を育み人生の結果に繋がっていると思います。


人生をやり直すことはできないけれど、未来は変えられます。
人生経験を通して知らされた今を見ることで、最善を尽くして後悔のない生き方をしてゆきたいです。


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永遠のテーマ



厄介なもので…人から好かれることは誠に難しいと感じます。



自分がこよなく愛している家族から愛の無い言葉を投げ掛けられると不幸のドン底に落ちた気分になることがあります。



自分の努力を目の当たりにしている同僚や知人から認められていない、評価されていないと感じると、自分はいてもいなくてもいい存在なんだと勘違いをしてしまうことがあります。



自分は頑張っているはずなのにね。…



そこで、思い直してみてはどうでしょうか?
私の行いが当たり前になってしまって、感謝の気持ちを言い忘れているだけなのかもしれませんし、
良くしようと思うあまり表現力が足りなくて悪い所ばかりを言い連ねてしまっただけなのかもしれません。
勘違いが重なっただけかもしれません。



そんなコトに振り回されないで、皆の評価を気にしないで、顔色ばかりを見ていないで、
自分が自分に対してどう見るのかが大切なのかなって思います。



大事にしている人との他愛も無い摩擦から、自分は取るに足らない存在だとネガティブになる感じ…
そのプロセスにシンパシーを覚えますが、
自分が自分を認めていたら良いじゃないですか!
柔軟な思考と自己認識力を高めて、自分の短期的な感情に捉われず自分を大事にしてゆきましょうね。



私にとってポジティブ・シンキングは、永遠のテーマです。




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