夫は繊細、純粋、心優しい人です。一家の主としての責任を果たそうと 精一杯努力してきました。
死の直後、私が肯定的に評価するべきでした。
最後の死に方が全てではありません。最後に明らかになった秘密が全てではありません。
それまで夫が歩んできた、在りし日の家族団らんの姿や必死に働いた姿が、夫の命の在り様を示すもっとも大切なことだと考えます。
自身のメンタルケアはあまり得意ではありません。この数ヶ月の私は、さまざまな感情が嵐のように押し寄せて混乱し麻痺していました。
自分の心を整えることが、どうしてこうも厄介なのでしょう。
特に
夫の死の理由を探してきました。
夫の死は…、
不慮の事故ではなく ご自分で選んだ道なのではないかとよぎります。
生前の夫の血走った目が怖すぎて極限状態を経た表情は まさに鬼気迫るものでした。
その心理状態から、
孤独感や絶望感や無力感のなかでイチかバチかの賭けだったのではないかと…。
本人は、死が唯一の解決策とは思っていないまでも、現状に疲れ果て自分を責め苦しみから逃げたかったのではないでしょうか。
と、考えを巡らせてソコにたどり着いてしまいます。
かと思えば、
亡くなる当日の「母さん、母さん。」と私を呼ぶ清々しい夫の顔を思いだします。
太鼓台を愛する人が地域の人々の思いを踏みにじることを考えるでしょうか。
お花畑のようなメールの履歴を消していない状況にも疑問をいだきます。
そして、よからぬ考えを打ち消すのでした。
喪失の悲しみとともに、夫に対する罪の意識にさいなまれます。
「私のせいだ」「私が夫を死なせた」「あの時こうしていれば」「私が夫を鬼気迫る夜叉にした…申し訳ない」と 自分を責めてしまうこともあります。
「どうして?」「なぜ?」という問いかけはまだ長く続くだろうと思います。
この問いへのはっきりとした答えは得られていませんが、
夫の死は夫のテーマの終わりであると…ふと、気付きました。
夫は、もう苦しむことはありません。
未来の無い総ざらい、夫の責任の解放を感じました。
今、
感謝の雨が見えます。
夫は八方塞がりの不安ばかりでも無く、祭り前の太鼓台組み立ての際には百人近くの青壮年が見守る中、太鼓を威勢よく打ち鳴らして悦に入っておりました。
夫はさぞ喜びや感激が胸いっぱいに広がり幸せなひとときだったことでしょう。
その動画が通夜や葬儀の会場で流れ、日頃から夫に寄り添ってくださった皆様のご配慮を感じ私も非常に感動しました。
慕ってくださる方々にさえも感謝の言葉を一切語る事が無かった夫ですが、仏となった今、これまでの喜びや感激の気持ちが走馬灯のように思いだされ、その抑えきれない感謝が雨のように降っていることを感じます。
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